ルドルフ・ウーレンハウトが、ダイムラー・ベンツでのキャリアをスタートしたのは1931年、最初の仕事はレースとはほとんど関係のないものでしたが、彼の才能はすぐに認められました。35年に乗用車開発部の実験エンジニアになると、さらに翌1936年、弱冠30歳にして、レース部門の開発責任者に抜擢され、W25の後継車として無敵を誇ったW125を設計。自らテスト車のステアリングを握るなど、全精力を込めて世界グランプリに送り出します。1937年、ウーレンハウトは乗用車開発部で主任技師の地位を得ますが、レースへの情熱が冷めることはありませんでした。彼はメルセデスのファクトリーチーム監督、アルフレート・ノイバウアとともに各地のサーキットを転戦し、技術者としての才能にさらなる磨きをかけていきました。
そして第2次世界大戦後、ウーレンハウトにさらにその才能を発揮する場が訪れます。戦後復興期のメルセデス・ベンツにとって、まず超えるべき大きな命題は、中断していた国際レースへの復帰でした。モータースポーツこそがメルセデスの技術力を向上させ、その勝利が再び名声をもたらすことを彼は知っていたからです。再出発を目指すメルセデスにとってモータースポーツへの復帰はまさに必然といえました。
1951年グランプリレースへのドイツのエントリーが認められるようになると、彼らは新たなレーシングカーの設計によってその1歩を踏み出します。開発責任者となったウーレンハウトは、設計担当のヨーゼフ・ミュラーとともに、第2次世界大戦中温めていたアイデアを具現化し、“300SL”を誕生させます。それは、軽量かつ強固なチューブラー・スペースフレーム構造を採用した、まったく新しい思想に基づくレーシングカーでした。 |

 |
 |
 |
 |

試験走行中の300SLRに乗る ウーレンハウトと彼の息子ローガー |
|