Mercedes Story
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いかにしてシルバー・アロー伝説は生まれたか
それはレース前日の夕方の出来事でした。本レースに備え、車検で計量を受けた純白のW25の重量は、規定の750キログラムをちょうど1キログラムオーバーしていたのです。当時メルセデスチームの監督を務めていた名将アルフレート・ノイバウアは、後年出版した彼の著作の中でこう述懐しています。

「1キログラムも軽くするなど不可能なことに思えた。なぜなら、グラム単位まで厳密に計算されたレーシングカーには、ムダなものは何ひとつついていないのだ。」
レースをする以前の基本的なミスでした。しかし、絶望的な思いに沈むノイバウアに、間もなく天の啓示が下ります。それは、ファクトリー・ドライバーのフォン・ブラウヒッチュのひと言でした。「これではみんなが顔に泥を塗られてしまいますよ」という彼の叱責の中で“塗る”という言葉にひらめいたノイバウアは、メカニックたちにボディのすべての塗装を剥がし取ることを指示、作業は夜を徹して続けられました。

翌朝、再び計量にやってきたW25は、果たして規定重量ちょうどで計量をパスします。しかも、純白のボディカラーを脱ぎ捨て、アルミの地肌そのままのシルバーに輝くW25は、まさに“銀の矢”。レースがスタートする前から観衆に強烈なインパクトを与えたのです。それがシルバー・アローの伝説がスタートした瞬間でした。歴史は偶然の産物といいますが、シルバー・アローの呼び名が生まれたきっかけもまた偶然だったのです。

はたして、レースでのW25は期待通りの走りをみせ、舞台であるニュルブルクリンクのコースレコードまで更新して完全勝利します。ドライバーは、くだんのフォン・ブラウヒッチュでした。

アイフェル・レース以降、W25を擁するメルセデスチームは、エースドライバーのルディ・カラッチオラとルイジ・ファジオリを軸に進撃を続け、翌1935年にはカラッチオラがヨーロッパ・チャンピオンを獲得します。当時のグランプリには、チーム同士が競うチャンピオンシップはまだありませんでしたから、チャンピオンの所属するチームが最強のチームと見なされました。そしてメルセデスチームは、W25に続きW125、W154と次々に高性能なレーシングカーを投入し、第2次世界大戦で1939年にグランプリ・レースが中断されるまで数々の勝利を重ねていきました。

シルバー・アローの呼び名は、現在のF1グランプリやル・マン24時間スポーツカーレースの報道の中でも、今も同じように使われています。そしてメルセデス・ベンツの勝利への姿勢は、モータースポーツが高度化した現在でも、まったく変わるところはありません。シルバー・アローは、伝説とともに生き続けているのです。

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ルディ・カラッチオラ

純白のボディカラーを脱ぎ捨て、アルミの地肌そのままのシルバーに輝くW25は、まさに銀の矢”シルバーアロー”
1939年のメルセデスW154-M163仕様

1939年のメルセデスW154-M163仕様
戦前最後のシルバー・アローとなったメルセデスW154(-M163)。スーパーチャージャー付きV型12気筒エンジンを搭載したモンスターマシン
1954年デビューのW196

1954年デビューのW196
メルセデスファクトリーチームは1954年、メルセデスW196でF1グランプリに復帰
ザウバー・メルセデスC9「シルバー・アロー」/1989

ザウバー・メルセデスC9「シルバー・アロー」/1989
'89年代に再び復活したシルバー・アロー“ザウバー・メルセデスC9”はル・マン24時間レースで優勝(1989)

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